さらば、ゴダールよ/こんにちは、ゴダール|観測再録 #4
ジャン=リュック・ゴダール監督(1930年12月3日 - 2022年9月13日)の命日に寄せて、当時の追悼文を再録する。
巨星落つ――さらば、ゴダールよ、あるいは、こんにちは、ゴダール
【初出:2022年9月21日「よくばり映画鑑賞術」『ひとシネマ』(毎日新聞社)】
ジャン=リュック・ゴダールが死んだ。91歳だった。
テレビや新聞、WEBメディアなどがこぞってその死を報道したため、多くの人の目に触れたと思う。だが、じっさいにゴダールの映画を見たことがある人は(たとえ映画好きであっても)それほど多くないのではないか。
この文章はむしろそうした人たちに届けたいと思って書いている。
「おもしろくない」からこそ「おもしろい」
ゴダールの映画は一般的な意味での「おもしろい」映画ではない。おもしろくないからこそ「おもしろい」タイプの映画である。
「いったい何を言っているんだ?」と思われるかもしれないが、これで意図が通じる人であればこの文章を読む必要はない(もちろん、読んでいただけたらありがたいが)。
そもそも映画に感じる「おもしろさ」は主観的なものであって、およそ一般化することなど不可能である。とはいえ、世の中には客を呼べる映画と、客を選ぶ映画がある。雑なくくりであることは承知だが、莫大な興行収入をあげ、レビューサイトに「おもしろかった」という感想が溢れるタイプの娯楽映画と、ミニシアターでひっそりと上映され、その筋の愛好家に絶賛されるアート系の映画の違いと言えばイメージはつくだろうか。
ゴダールの映画は明らかに後者に属している。いや、「属している」というより、その世界の「王」として君臨していると言ったほうが正確かもしれない(「王」が崩御したのだからメディアが騒ぎ立てるのも当然である)。
要するに、ゴダールの映画を見るときには、たとえばハリウッドの大作映画を見るときとは違った構えが求められる。そこにわかりやすい物語はなく、エモーショナルな見せ場もない。ぶつ切りにされた映像の合間に何やら知的な引用が膨大に挿入され、ときに音声すら画面から乖離していく。見るだけで体力を奪われる。同じ1時間半なり、2時間なりを過ごすのであれば、前衛的で芸術的、難解で高尚な(批評家御用達の)ゴダール映画より、明朗快活なハリウッド映画を選ぶほうがよほど理にかなっている(異論、反論は大いに受けつける)。
一方で、難解さをありがたがる人種はどこにでもいるものである(映画を研究や批評の対象にして文章を書いている僕自身もどちらかといえばそちら側の人間だ)。「多くの人に理解されないおもしろさを理解できる自分は相対的に優れた人間である」と考えて、密かに暗い優越感に浸るのも、決して悪いことではない。
「キミには理解できないかも」vs「ありがたがるほうがバカ」
「ゴダールは既存の映画の枠を破壊してその可能性を拡張した」うんぬんと講釈を垂れることはいくらでも可能である。じっさいには理解できていなくても問題ない。どうせほとんどの人がわかっていないのだから。こうなると「裸の王様」である。
あえて悪しざまに言ってみせたが、別に難しさのなかにおもしろさを見いだすのは必ずしも否定されるべき態度ではない。それが少なからぬ人を納得させるものか、それとも幸福な少数者の誤解なのかはともかく、本人がおもしろがっているのなら「勝手にしやがれ」で済む話だ。しかし、問題は、そういう人間がついつい他人を見下すようなポーズをとってしまいがちなところにある。じっさい、ゴダールはしばしば知的スノッブのマウンティングに使われてきた。「ゴダールくらい見ておかないと映画を語る資格はないよね」だとか「キミには理解できないかもしれないけれど」だとか言いはじめたら、言われた側が心穏やかでいるのは難しい。
一方で、そうして嫌な思いをした人には開き直るという道が用意されている。「あんなものをありがたがるほうがバカなのだ」と言って切り捨ててしまえばいい。映画に詳しい人を捕まえてゴダールに対する評価を聞けば、おそらくこの両方の反応が見られるだろう。
現在の僕はゴダールに対してそこまで強い思い入れがあるわけではなく、かといってその映画史的重要性を全否定するほどの見識があるわけでもない。結局のところ、そんな中途半端な立場にありながら、大所高所から俯瞰してわかったようなことを書き連ねている僕自身がもっともタチの悪い人種なのかもしれない。以下、恥を忍んで僕の個人的かつ主観的なゴダール体験を記し、追悼にかえたいと思う。