定時通信 #7|2026年9月12日(土)

ゾンビ映画再び(吸血鬼映画と何が違う?)、東浩紀のYouTube突発配信と麻雀、整体と庭
伊藤弘了 2026.09.12
読者限定

今週の定時通信をお届けする。

X(旧twitter)アカウントの乗っ取り未遂から、なりすましの出現(すでにアカウント名は変更済みのようである)と続いて、悪いニュースはこれで終わりかと思いきや、今度はクレジットカードが不正利用された。

カード会社からの照会のおかげで即座に気づき、速やかに利用を停止することができた。不正利用された分の請求も無事に取り消されたようで一安心だが(Twitchに複数回にわたって合計7万円ほど課金されていた。投げ銭に使われたのだろうか)、クレカはこの一枚しか所持しておらず、手元に使えるカードがなくなった。この大キャッシュレス時代に逆行して、束の間の現金生活を楽しむことにする(とはいえ超不便ではある、特に通販の支払い関係)。

新しいカードの到着が9月13日からの出張に間に合うかどうかは微妙なところである。また、出張後には各種サイトに登録してある支払い方法を新しいカードに切り替える仕事が待っている。それを考えると今から憂鬱なので、いったん忘れることにする。

あまりの便利さゆえに忘れかけていた情報社会の危うさを肌で感じる機会となった。みなさんもセキュリティにはくれぐれも気をつけていただきたい(一方で、ユーザー情報がわからなくなって再ログインできないまま使えないアプリが多数ある。いやはや)。

■ 観測振り返り

2026年9月10日配信

黒澤明の命日(9月6日)に合わせて再録した『椿三十郎』(1962年)の批評。
記事をきっかけに、さっそく映画を鑑賞して、応答(コメント)してくれた読者の方がいた。

そして、この再録記事自体が、実はある方への個人的応答の側面を持っている。

伊藤弘了@第八芸術観測哨
@hitoh21
黒澤明の傑作『椿三十郎』について以前書いた記事を個人ニュースレター「第八芸術観測哨」に再録しました。



octa-critique.theletter.jp/posts/ffb903cd…



元の記事が読めなくなって残念がってくださった方のことが、ずっと心に残っていました。
この映画を見よ:黒澤明『椿三十郎』|観測再録 #3映画の神は反復に宿る。octa-critique.theletter.jp
ガラパゴス亀岡@notitleaccount
森田芳光監督版『椿三十郎』を観たので、とうとう読むときがきたかと思ったが、どうやらもう読めないらしい
ネット記事は寿命が短いみたい
無念 https://t.co/fKBKSP1JYt
2026/09/11 18:18
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本文でも強調している通り『椿三十郎』はめちゃくちゃおもしろい映画なので未見の方にはぜひおすすめしたい。特に白黒(モノクロ)映画を見たことがないという方には、最初の白黒映画としてもおすすめできる。

しばしばモノクロからカラーへの移行は映画の「進化」と考えられがちである。一般的な感覚としては理解できる。ただ、映画研究者や批評家の多くはそうは考えていない。強いて言えば別の種目とでも考えればいいだろうか。絵画と写真を比べても仕方ないように(もちろんある点では比較可能である)、あるいは、100m走とフルマラソンの優劣を議論しても仕方ないように(これもできなくはないだろうが)、モノクロ映画とカラー映画は同じ「映画」でありながら、別の括り方をすることができる。モノクロ映画には、白黒の階調性によってしか表せない画面の美しさがある(フィルムとデジタルの問題とも関係するがここでは割愛する)。

『椿三十郎』には森田芳光監督によるリメイク版(2007年)が存在する。オリジナルの黒澤版と同じ脚本を使うという興味深い試みをしている作品である。こちらについて論じた文章も、いずれ再録したいと思っている。

■ 観測予定

  • さらば、ゴダールよ|観測再録 #4

9月13日はジャン=リュック・ゴダールの命日。それにちなんで、亡くなった当時に書いた追悼記事を近日中(おそらく来週の中ほど)に再録配信する。

ちなみに「さらば、ゴダールよ」は、ゴダールの監督作『さらば、愛の言葉よ』(2014年)をもじったものである。

  • 定時通信 #8|9月19日(土)

9月14日から16日まで関東方面に出張の予定があるので、その報告をすることになると思う。

■ 観測対象

映画人誕生日

  • ハンス・ジマー(1957年9月12日 - )

映画音楽界の大御所。膨大な数の映画音楽を手掛けている。日本でも『オデュッセイア』の公開が始まったが、クリストファー・ノーランの監督作では『ダークナイト』(2008年)、『インセプション』(2010年)、『インターステラー』(2014年)、『ダンケルク』(2017年)など、7作品に参加している。

アカデミー賞にノミネートされた回数は実に12回にのぼる。そのうち『ライオン・キング』( ロジャー・アレーズ、ロブ・ミンコフ監督、1994年)と『DUNE/デューン 砂の惑星』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2021年)の2回で受賞を果たしている。

映画人命日

  • ジャン=リュック・ゴダール(1930年12月3日 - 2022年9月13日)

映画公開情報(9月11日公開)

  • 是枝裕和『ルックバック』

  • クリストファー・ノーラン『オデュッセイア』

いずれも、以前から個人的に楽しみにしていた作品だが、まだ見に行くことができていない。書類、会議、書類、書類、会議書類書類に次ぐ書類。いずれも組織を維持するための重要な儀式には違いない。しかし、組織だけを生きながらえさせてどうなるというのか。自分が何のために生きているのかときどきわからなくなる。

■ 映画寸評

今週のゾンビ映画のコーナー。

先週は『ゾンビランド』(ルーベン・フライシャー監督、2009年)の「西部劇」性を紹介した。西海岸への移動をフロンティア開拓の西漸運動に見立て、理性を失ったゾンビとネイティブ・アメリカンを重ねるグロテスクかつ批評性のある構図を指摘した。

今週もいくつかゾンビ映画を見たが、まずよかったのは『ドーン・オブ・ザ・デッド』(ザック・スナイダー監督、2004年)である。ロメロの『ゾンビ』(1978年)と同じ原題(Dawn of the Dead)を共有していることから明らかなように、『ゾンビ』のリメイクという位置づけの作品である。

ショッピングモールに立てこもってゾンビたちの襲撃に備える登場人物たちという構図や、その中に「妊婦」が含まれている点で『ゾンビ』と枠組みを同じくしている(ただし、本作の妊婦表象には一捻りくわえられている)。

また、劇中ではわざわざ「西部劇」というセリフが口にされている。

未開の地に文明をもたらそうとする運動が西部劇を駆動しているとすれば、ゾンビ映画は文明を滅ぼそうとするゾンビからいかにそれを守るかを描く。方向が逆転しているのである。

そこで立てこもる先としてショッピングモールが選ばれるのは示唆に富んでいる(すでにゾンビ研究では散々指摘されていることではあるが)。生き残った人々は、資本主義文明の象徴的な場所を守ろうとするのである(そしてゾンビ化した人々も生前の微かな記憶を頼りにショッピングモールを目指す)。僕の言い方に翻訳すれば、ショッピングモールは荒廃した世界に残された文明の最後の〈器〉である。

『ドーン・オブ・ザ・デッド』ザック・スナイダー監督、2004年(DVD、ポニーキャニオン、2006年)

『ドーン・オブ・ザ・デッド』ザック・スナイダー監督、2004年(DVD、ポニーキャニオン、2006年)

救出対象の名前が「アンディ」なのは、もちろんたまたまだろうが、「トイ・ストーリー」シリーズのおもちゃたち(ウッディやバズ)の持つ主を想起させる。拙著でも取り上げたように「トイ・ストーリー」もまた西部劇的な結構を作中に取り入れている作品である(というより、アメリカ映画には西部劇の要素が偏在しているという言い方をしたほうがいいかもしれない。西部劇は良くも悪くもアメリカが国是として掲げてきた正義の神話を描くジャンルだからである)。

伊藤弘了『仕事と人生に効く教養としての映画』PHP研究所、2021年

伊藤弘了『仕事と人生に効く教養としての映画』PHP研究所、2021年

伊藤弘了『仕事と人生に効く教養としての映画』PHP研究所、2021年

伊藤弘了『仕事と人生に効く教養としての映画』PHP研究所、2021年

■ 応答

それから先週見た中では『罪人たち』(ライアン・クーグラー監督、2025年)が頭抜けてよかった。これはニュースレターのコメント欄で読者の方が挙げてくださった作品である。劇場公開時に見逃していたことを後悔するほどの出来栄えだった。

『罪人たち』ライアン・クーグラー監督、2025年

『罪人たち』ライアン・クーグラー監督、2025年

「いや、『罪人たち』は“ゾンビ映画”ではなく“ヴァンパイア”ものでは?」というツッコミに対して先回りして弁明しておくと、そもそも読者もその前提を踏まえたうえで「あれ? 吸血鬼ってつまりゾンビやん(順番が逆 笑)」とコメントしてくれている。

映画史において吸血鬼映画とゾンビ映画はどのように交配/交雑してきたのか?

これは一大テーマである。いずれ独立した記事か、別の機会で詳しく論じたいと思う(コメントの返信でもそうやって逃げたわけだが笑)。

ひとまず、1954年に刊行されたリチャード・マシスンの『アイ・アム・レジェンド』(ハヤカワ文庫、2007年。邦題は『吸血鬼』『地球最後の男』を経て現在は原題をそのままカタカナにしたこれに落ち着いている)と、その三度の映画化作品(1964年、1971年、2007年)が結節点のひとつに挙げられるということだけ予告的に示しておく。

三度目の直近の映画はウィル・スミス主演の『アイ・アム・レジェンド』(フランシス・ローレンス監督、2007年)である(小説の邦題はおそらくこの映画の公開に合わせて変更されている)。

『アイ・アム・レジェンド』の「感染者」は明らかにゾンビ的に表象されているが、原作小説の設定ではあくまで吸血鬼である。じっさい、理性と感情をわずかながら残しているらしく描かれており(こちらは最近のゾンビものにもしばしば見られるが)、「太陽光に当たると焼け死ぬ」というヴァンパイアの定番の設定を継承している。

先ほどの『罪人たち』に出てくるヴァンパイアは古式ゆかしい吸血鬼の作法を守る。一見すると人間と見分けがつかず、相手の許可がなければ建物内に入ることもできない(そしてニンニクが弱点らしい)。

両作品を見比べると、伝統的な吸血鬼映画とゾンビ化した吸血鬼映画の差分が取れておもしろいと思う。

ちなみに、個人的におすすめの吸血鬼映画はジム・ジャームッシュの『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(2013年)である。小説なら西尾維新の『傷物語』(講談社BOX、2008年)を推したい(後者のアニメーション映画化は個人的にはいまいちハマらなかったが)。

『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』ジム・ジャームッシュ監督、2013年

『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』ジム・ジャームッシュ監督、2013年

ジャームッシュがその後に『デッド・ドント・ダイ』(2019年)というゾンビ映画を撮っていることは徴候的かもしれない(人を選ぶタイプの映画だとは思う)。

彼の映画はどれも基本的に好きだが、『パターソン』(2016年)は抜群によかった(吸血鬼映画でもゾンビ映画でもなく、あえて分類すれば「双子映画」である)。終盤に唐突に登場する永瀬正敏がいい味を出している。

■ 拾得物

哲学者・批評家・経営者(現在の本人が望んでいる正式な肩書きは把握できていないが)として知られる東浩紀のYouTube突発生配信を見ていたら(よくやっているし、僕もよく見ている)、とても触発的なことを言っていた。彼は「ゲンロン」という哲学・思想・広く人文知をコンテンツにして社会に届ける会社を創業し、(前身の「コンテクチュアズ」時代から数えれば)実に15年以上にわたってその活動を続けている。

その経験を踏まえたうえで、企業経営者には人と異なる未来なりヴィジョンなりが見えているが、いくら説得しようとしてもその時点では誰も信じないという構造があることを指摘している。多くのヴィジョンは当然失敗に終わり、生き残った数少ない者だけが後から振り返って「先見の明があった」と評価される。しかし、東が言うように「説得と行動が違うからこそ世界は発展する」のである。人々を納得させるには、自分が信じた未来を結果として示すしかない。

(※埋め込んだYouTube動画は該当箇所[1:40:31]から再生が開始されるように設定してある。)

***

東の趣旨からはおそらく外れることになるが、最近、某研究費の申請書を書きながら同じようなことを考えていた。この研究プロジェクトがどういう成果につながるのか。そんなことは自分自身にさえわからない。だが、自分にはおぼろげながらも見えている未来はある。しかし、いくらできると言い張ってみても、それだけでは審査員は納得してくれないし、誰も信じてくれない。

結局、ある程度の結果を出したうえで、その先の、ほぼ確実に見えている近い未来の計画を書くのが最適解ということになる。もちろん割り切ってそういう計画書を書くことはできる。誇大妄想的な野心を抱いていたとしても、それは明かさず、現実的なことだけを書いておけばいい(いずれにせよほぼフィクションだが)。でもさ、研究とか人文学とかって、そんな制度に縛られるような窮屈でつまらない営みなんだっけ? 

僕の場合はとりあえず目の前のおもしろそうなものに次々に飛びついてみる。不発に終わることも当然あるが、後に何かとつながることもある。そのときは無駄だと思っていたことが、あとから別のアイデアと結びついて文字通り実を結ぶかもしれない。どの読書体験やどの経験がどこにつながるかはわからない。1冊の重要な本と出会うためには100冊の本が必要だったりする。

未来はわからない。未来の自分が何に興味をもっていて、何に本気で取り組んでいるかわからないから研究や批評は楽しいと僕は思っている。これは僕の生き方の問題かもしれない。刹那的、場当たり的なおもしろさを優先してきた結果、どうにかここまでやってこられたという生存バイアスに過ぎないのかもしれない。でも、3年後はおろか来年のことだって、本心を言えば来週のことだって考えたくもない。

***

東浩紀は言論人と会社経営者の二つの側面を持ち合わせている。そして、両者には別の世界が見えており、二つの別のゲームをしていると論じる。ここからの喩えが秀逸である(先ほどの動画の続き、1:44:45〜)。書き手がやっているのはチェスや将棋のような「完全情報ゲーム」だが、企業家がやっているのは不確実な「未来への投資」であり麻雀に近いと言う(僕の言い方では、ゲームはそれぞれの〈器〉を有しているということになる)。

麻雀を知らない方にはちんぷんかんぷんかもしれないが(「庭を育てる」のコーナーまで読み飛ばすことを推奨する)、僕は幸いひととおりのルールはわかるので(ただし満貫以下の符の絡む点数計算はできないレベル)、ここで東の言っていることもよくわかる(平和[ピンフ、面前1翻の安い役]であがれそうだけど索子[ソーズ]が伸びてきたし、混一色[ホンイツ、面前3翻、リーチ・ツモなら2翻追加で満貫]を目指すか。ん、これは清一色[チンイツ、面前6翻、跳満確定]まで見えてきたし字牌を対子落としするか、いや待てよ、もしかして緑一色(リューイーソー、役満)まであるのでは?)。

何を言っているかわからない方は、ぜひ福本伸行の麻雀マンガ『アカギ』や『天 天和通りの快男児』をお読みいただきたい(『アカギ』はもともと『天』のスピンオフ)。

そして、東による麻雀メタファーは快調に続く。先ほどから約1時間後(2:55:29〜)に、再び人生を麻雀に喩えて説明し始める。

「白白中中中(ハクハクチュンチュンチュン)が見えている」というのは、大三元(役満)を期待してしまうという意味である(あとは白がもう1枚と、發3枚が必要。鳴いてもいい[ポンしてもいい])。

麻雀の一般的な試合形式である半荘(ハンチャン、東1〜4局+南1〜4局の8局を行う)に喩えた場合、東はすでに南入して(東場の4局を終えて南場に入って)おり、親番も最初に蹴られて南3局くらいだと自己分析している。しかし、南2局(「シラス」という独自動画配信プラットフォームのリリース)で跳満をあがって現在トップである。

南3局の配牌(最初に配られる牌)も悪くなく、平和あたりの安い手で早がりできそうである。そのままあがって、南4局も適当にいなせば、トップ確定という状況だ。普通ならそれでいい。というか、麻雀というゲームにおいては一般にトップを取ること以上を求める必要はない。何万点積み上げようと、2位以下と何点差あろうと関係ない(もちろん、それまでの累積成績が絡んでくるケースや、点数それ自体が得点になるMリーグのようなケースではその限りでない)。

しかし、人生がたった一度きりの半荘の麻雀なのだとしたら、3万点台や4万点台かそこらのトップであがるだけでいいのだろうか。やはりそれに飽き足らず、圧倒的な点を積み上げるべきではないのか(個人的には10万点が一つの目安になると思う)。最後の局こそ、役満をあがって有終の美を飾るべきではないのか。

もちろん、世迷言には違いない。しかし、ロマンを追い求めずして何が人生かとも思う。ちなみに、僕自身の麻雀は素人以下である。基本的に場の流れなど関係なく、他人の捨て牌もほとんど見ないし、ひたすら自分の手、それも高めの手、できれば役満を完成させることだけを目指す。当然、放銃(打ち込み)の嵐であり、トップなど取れるはずもない。

だが、たった一度だけの半荘なら? もしかしたら、運だけで勝てることはあるだろう。親番で天和(テンホー、配牌の時点で和了[アガリ]の形ができている状態、役満)をあがってしまえば実力も技量も関係ない。あとはもう一度、何かの間違いで役満をあがれないとも限らない。それで勝ちである。

僕自身は東4局を親で迎えたくらいの状況だろうか。これから配牌である。まだ得点差はほとんどない。ここから何でも起こりうる。そういう夢を見ながら生きている。

***

この流れで是非とも「令和人文主義」に一言物申しておきたいことがあったが、ひとまず簡単な言及に留めておく。

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