ドキュメンタリーはフィクションである|観測記録 #3

フィクションはつねにすでにドキュメンタリーであり、ドキュメンタリーはつねにすでにフィクションである。引き続き、傑作ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督、1987年)について。
伊藤弘了 2026.07.14
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前回の配信記事「この映画を見よ:『ゆきゆきて、神軍』 」の続きである。ちなみに「この映画を見よ」という命令形の言い方に違和感を覚えた方もいるかもしれないが、これはもちろんフリードリヒ・ニーチェの『この人を見よ』をもじったものである(このフレーズ自体が『新約聖書』からの引用)。

とりわけ人文系のテクストには、しばしばこの手のさりげない引用が忍ばされている。たとえば前回も名前をあげた(僕の師匠の)加藤幹郎先生の新海誠論には次のような一節がある。

一般の映画では、風景のかわりに、一個の身体を有し、生活と意見をもつ主人公(キャラクター)の劇的な人生の瞬間に焦点がしぼられるようになったのである。

加藤幹郎『表象と批評 映画・アニメーション・漫画』岩波書店、2010年、132頁

映画の一般的な傾向について述べた何の変哲もない一文に見えるかもしれないが、ここで何気なく用いられている「生活と意見」の出典が、言われなくともわかるのが研究者である(加藤先生は英文学者でもある)。気になる方は下記のブログ記事などを参照されたい。

ちなみに、リード文で使った「つねにすでに(always already)」も、特に現代思想の分野で脈々と継承され続けているお決まりの言い方である。

ドキュメンタリーとは何か?

さて、前回紹介した映画『ゆきゆきて、神軍』はドキュメンタリーとして文字通り“破格”の作品である。ドキュメンタリーというジャンルの外延にゆさぶりをかけ、その境界に疑義を突きつけている(これは一般に傑作と呼ばれる作品が備えている特徴のひとつである)。

『ゆきゆきて、神軍』は、現在、下記のリンク先(YouTube上)で無料視聴できる。

監督の原一男は、『ドキュメンタリーは格闘技である』(筑摩書房、2016年)という対談集を上梓している。奥崎謙三や井上光晴(『全身小説家』1994年)といった一筋縄ではいかない人物と格闘しながら、あるいは『ニッポン国VS泉南石綿村』(2018年、215分)や『水俣曼荼羅』(2020年、372分)のような作品を通して国家権力に闘いを挑み続けている原にふさわしいタイトルだろう。

『全身小説家』も、現在YouTube上で無料公開中である。こちらも必見の名作。

本書に収められている深作欣二との対談の中で、原はドキュメンタリーについて次のような見解を示している(関連する深作の言葉は、読者限定パートで紹介しておく)。

僕らが扱う対象は、実際の現実のこの社会に生きている生身の人間ですよね。で、ある人間と関わりながら作品を作っていくときに、ドキュメンタリーというのは社会的な真実をどうのこうのっていう、それらしい定義がいろいろあるけれども、僕は最近、やっとひとことで言えるようになった。それは「ドキュメンタリーはフィクションである」っていうことなんです。

「ドキュメンタリーはフィクションである」というのは、決して突飛な主張ではない。むしろ、映像に携わっている人間が少なからず共有している前提と言ってもいい。事実、森達也『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社、2005年)や、稲田豊史『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社、2024年)などの書籍を紐解けば、すぐに同様の主張を見つけることができる。

森達也は佐村河内守を追った『FAKE』(2016年)などのドキュメンタリー作品の監督として知られる。オウム真理教に密着したの『A』(1997年)や『A2』(2001年)も必見である。稲田豊史はベストセラーとなった『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書、2024年)の著者であり、最新刊の『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ、2026年)も話題となっている。

森達也は佐村河内守を追った『FAKE』(2016年)などのドキュメンタリー作品の監督として知られる。オウム真理教に密着したの『A』(1997年)や『A2』(2001年)も必見である。稲田豊史はベストセラーとなった『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書、2024年)の著者であり、最新刊の『本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形』(中公新書ラクレ、2026年)も話題となっている。

報道(ジャーナリズム)というジャンルが、客観性や中立性を自覚的に標榜すること自体は正しい。これに文句をつけるつもりはない。しかし標榜すると同時に、主観を完全に排除して中立な位置に視点を置くことがそもそも不可能であることも、しっかりと自覚すべきなのだと僕は思う。

そもそも現代において、記録映像が客観的でも中立的でもないことは常識である。

というドキュメンタリーの極北を指し示す『ゆきゆきて、神軍』という映画は、奥崎謙三という主演俳優が奥崎謙三自身を演じる劇映画でもある。

この世は舞台、人はみな役者

最新作の『急に具合が悪くなる』が話題を集めている濱口竜介は(この映画の映画評も書きたいと思っている)、劇映画のすぐれた監督として知られ、かつドキュメンタリーのすぐれた作り手でもある(と同時にすぐれた批評家でもある)。彼も先ほど紹介した諸氏の主張とほぼ同様の見解を記している。

ある映画について「ドキュメンタリーなのか、フィクションなのか」という区分けを試みるよくある問いは、私にはほとんど無意味に感じられます。映画制作の最小単位であるショットを撮る時点で、ドキュメンタリーとフィクションとしての性格は必ず同時に生じます。ならば、その集積として作られる映画もまた、常にある程度ドキュメンタリーであり、ある程度フィクションである以外はありません。映画は常にフィクションであると同時にドキュメンタリーである。あくまで個々の作品のアプローチによって、その度合いが違うというだけなのです。

カメラを向けられれば、人は誰でも演技をする。というか、カメラを向けられていなくても、我々はつねに自分自身を演じている。家族や友人、恋人、上司に向ける顔はそれぞれ少なからず異なるだろう。我々はみな、そのときどきに求められる自分を演出しながら生きているわけである。

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』講談社現代新書、2012年。初回の配信記事ではややネガティヴな取り上げ方をしてしまったが、平野啓一郎がすぐれた書き手であることに疑いはない。

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』講談社現代新書、2012年。初回の配信記事ではややネガティヴな取り上げ方をしてしまったが、平野啓一郎がすぐれた書き手であることに疑いはない。

余計かつ大きなお世話だろうが、読者諸賢におかれては、ぜひとも「フィクション(劇映画)」と「ドキュメンタリー」というよくある二分法を鵜呑みにすることなく、同時に、日々演技する自分自身を自覚的に楽しんでいただきたいと、切に願う。

***

原一男監督にいただいたサイン。ポレポレ東中野で『ゆきゆきて、神軍』が上映されていた際に、友人たちと不定期で開催していた映画会の一環として、監督のトーク付き上映回を見に行った。


原監督が『ゆきゆきて、神軍』について語っている動画はYouTube上に複数ある。最近では視聴者の質問に答えるライブ配信も行っているので、興味のある向きはチェックしてみてほしい。

***

来週21日(火)は下記のカンファレンス「Yasujiro Ozu Now」に登壇する予定である。小津安二郎について、英語で45分話す(当然まだ準備はできていない)。場所は関西大学東京センター(JR東京駅至近、さすがは大手私大)。参加希望者は画像のリンクから事前登録を。

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